第19話

働き者の町

 波に揺れる小さな伝馬船の上で仁王立ちのおじさんは夏も冬も上半身裸だ。赤銅色に日焼けしたたくましい体は、夕日に染まって一段と赤く輝いていた。

 「戦争ごっこ」に備えて、庭の隅に作った基地の前に深い落とし穴を掘っていると、空き缶やガラス片などのゴミと一緒に貝殻の交じった砂が出てくる。甲突川と清滝川の河口に接し、錦江湾に突き出たボクらの町は「埋め立て地」とも呼ばれるように海岸の造成地だ。南北と東の三方を堤防が取り囲んでいる。
 町内には製材工場があり、堤防の内側は丸太や板材の置き場になっていて、ボクらの遊び場の一つだった。そこから少し歩いた堤防のすぐそばには、いくつかの砂山ができている。ここもボクらの遊び場になった。
 砂遊びの最中に、堤防を越えて海から砂の塊が飛んでくる。「ヨイショー」という掛け声の後に、砂は同じ間隔で同じ場所に正確に飛んでくるのだ。みるみる新しい砂山が築かれていく。
 掛け声が聞こえると、ボクは堤防をよじ登って声の主を探す。それはいつも決まっている。ボクの家19-1.gifから2軒隣のおじさんだ。小舟を操って甲突川の河口から沖へ出ては、建築工事用の砂を取って戻り、堤防越しに陸揚げする。荒天以外はそれを毎日、何度も繰り返す。
 向こう鉢巻きに褌(ふんどし)ひとつ。安定の良くない小舟の上にガッシと足を踏ん張って立ち、スコップを振るう。舟から堤防までの高さは潮によっても毎日違うが、満潮でも2メートル以上はあっただろう。その堤防を越して砂を投げ入れる。真夏の日差しに汗を光らせ砂を飛ばす日もあれば、冬の冷たい風の中で白い呼気を吐きながら砂に向かう日もあった。そのどれもが子どもの目にも「働く男」の神々しい姿に映った。

tennsenn.gifのサムネール画像 戦後の日本は働き者であふれていた。ボクらの町も働き者の町だ。男も女も働いて働いて日々を暮らした。
 朝は「チリン、チリン」という高く澄んだ鐘の音で目が覚める。甘い煮豆売りのおじさんが毎朝鐘を鳴らしながら自転車で町内を回ってくる。荷台に積んだ木箱の引き出しを開け、中の煮豆を紙の袋に詰めて売ってくれるが、一番小さい5円の袋から10円と20円の袋まである。甘い汁が欲しければ家から器を持って行き、それに煮汁ごと豆を入れてもらう。「チリンチリン豆屋」のおじさんはこれで家族を養うのに毎朝何軒の家を回るのだろう。
 夕方になると、戦争で片腕を失った魚売りがリヤカーを引いてやって来た。腕一本で出刃包丁を自在に操り、どんな魚でも瞬く間にさばく見事な腕前の持ち主だった。「サ~カナ~はいらんな~」。節を利かせた売り声は哀調を帯び、ボクらにその日の遊びの時間がそろそろ終わりであることを告げる声でもあった。
19-2.gif 女も働き者ぞろいだ。母親たちの多くが日雇い仕事に出て生活費を補った。仕事のない日は家の雑事で忙しい。電気掃除機などまずないし、電気洗濯機もまだ珍しく、どの家もたらいでせっせと洗濯だ。
 子どもたちもよく働いた。小さな弟や妹の子守は当たり前。背中に赤ちゃんをおぶったまま遊んでいる子も、よく見かけた。
 近所にはブタを飼っている家が何軒かあった。そこの子は毎夕、バケツを手に家々を回る。当時は生ゴミをやたらと捨てる家は少なかった。野菜くずや魚の内臓、米のとぎ汁などはいったん台所の外に置いた桶(おけ)にためておく。それをブタの餌にしようと子どもらがもらいに来るのだ。
 鹿児島市内に馬もいた。ボクの家の近くにも荷馬車引きのおじさんがいて、馬を飼っていた。朝早く、馬に荷車を引かせて家を出る。荷車には大抵、丸太を山と積んで行き来し、夕方には空の荷車で帰ってくる。遊びから帰る頃にちょうど出合うと、ボクはこっそり荷車の後ろに回り、ぶら下がって家まで運んでもらったものだ。

tennsenn.gifのサムネール画像 働き者だがみんな貧しいこの町で、ボクの親父は歯科の小さな診療所を開業していた。「歯医者稼業は好きじゃない」と公言していた親父だが、仕事となるとまじめ一本。歯は抜いても手は抜かない。口は悪いが、患者さんたちには妙に人気があった。多くの貧しい日雇い労働者が治療を受けに来た。診療費の支払いが遅れるのはいつものこと。お金の代わりに自分で釣った見事な魚を持ち込む患者さんもいた。
 みんな明日を夢見て働いたのだろう。こんな働き者たちが、その後の日本の成長を支え、「豊かな国」を実現してくれたのだった。


  
次回は第20話 花の中学生



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